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2007年5月

2007年5月26日 (土)

シャクシャインの戦いを攻略

北海道は明治になるまでは蝦夷地(えぞち)と呼ばれていました。そこには、アイヌ民族という大和民族とは外見からいってかなり異なる民族の人々が住んでいたわけです(もちろん現在も住んでいます)。東洋人を揶揄する言葉に「イエローモンキー」というものがありますが、アイヌの人々の顔立ちは西洋人に近いです。鼻が高くてほりが深い。刺青の習慣があることもあって初めて資料で見たときは少し怖かったです。

今回攻略するのは1669年(寛文9年)6月、アイヌ民族の英雄「シャクシャイン」が松前藩の横暴に対して起こした「シャクシャインの戦い」を攻略します。

シャクシャインは現在の日高町から白老町にかけてアイヌ民族集団の首長でした。簡単に言えば、北海道の東側のボスだったわけです。

アイヌの人々と本州の人々(和人)とは以前から交易を行っていました。しかし、江戸時代に幕藩体制が確立するとアイヌとの交易は松前藩のみに限られてしまいます。これは大きな痛手でした。いつの時代も金儲けになるのは「貿易」です。それが限定され、阻害されてしまったのです。

しかも、この松前藩が幕府の力を背景にして調子に乗り始めます。松前藩の財政難の事情から交換レートを大幅に上げます。以前は干鮭100本と米2斗を交換していたのに、米7升へと移行したのです。さらには、一方的に交易を押し付ける「押買」や松前藩船の大網による鮭の大量捕獲が目立ちはじめます。アイヌ民族の生活基盤がどんどんおびやかされていきます。

この状況にキレたのがシャクシャインです。シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌ民族に蜂起を呼びかけます。多くのアイヌ民族がこれに従い、松前藩VSアイヌ民族の構造ができあがります。

Shakkun

↑シャクシャインの銅像。真歌公園(静内町)にあります。

シャクシャインたちは交易船を襲撃したり、蝦夷内部に砂金目当てで入ってきた和人たちを襲います。350人以上の和人が殺されました。

こりゃたまらんと松前藩は幕府に援軍を要請します。幕府は弘前・盛岡・久保田の3藩に出陣を命じます。幕府の協力さえ得れればこっちのものです。アイヌ民族の武器は弓矢が主体でした。とても鉄砲にはかないっこありません。

シャクシャインもバカではありません。松前を目前まで行軍していましたが敵の勢力を悟って後退し、長期戦にもちこもうとします。松前藩は戦が長期化することを最もビビッていました。幕府から改易されるかもしれないからです。領地内のもめごとはその藩の責任という考えが幕府にあったからです。

といってもシャクシャインは徹底抗戦の構えのままです。そこで松前藩は汚い手を使うことにしましたシャクシャインに和睦の申し出をしたのです。もちろんこれは罠です。和睦を口実にシャクシャインを酒宴の席に呼び出して殺してしまうことが真の目的でした。

もちろんシャクシャインは和睦に応じることに危険を感じます。しかし、アイヌの人々は人が良いのか、和人を信じてみようとするのです。特にシャクシャインのバカ息子は和睦に応じることを強くすすめました。こうして、シャクシャインはしぶしぶ和睦の申し出を受けることにしました。

10月23日、のこのこと藩の陣営にやってきたシャクシャインたちを狙い通り暗殺します。翌日にはシャクシャインの本拠地を陥落させることもでき、アイヌ軍は敗北となってしまいます。

以後、松前藩は蝦夷各地に兵を送り、アイヌ民族の松前藩への恭順を確認しました。それは1672年まで続いたようです。

            攻略

シャクシャインの戦いはあまりテストでは遭遇しません。年号もしっかり覚えておく必要はなく、だいたい元禄時代ぐらいかな~、とか江戸時代の前半だよな~ぐらいの認識で結構だと思います。一応、語呂合わせを紹介しておきます。

1669年  シャクシャインの戦い(乱)  シャクシャインがイチローと69(シックスナイン)

……下ネタまじってますけど、まあいいじゃないですか。

覚えてほしい人物もいません。ただし、コシャマインとごっちゃになりやすいので注意が必要です。

コシャマイン……1457年に道南のアイヌを率いて蜂起したが、射殺された。コシャマインの戦い。

次は用語です。

和睦……争いを止めて仲良くすること。和解。停戦。

蜂起……スルハチが巣から一斉に飛びたつように、大勢が一時に暴動・反乱などの行動を起こすこと。「

首長……集団・組織を統率する長。かしら。おさ。

改易……罪科などによって所領・所職・役職を取り上げること。江戸時代、士分以上に科した刑罰。武士の身分を剥奪(はくだつ)し、領地・家屋敷などを没収する刑。蟄居(ちっきょ)より重く、切腹より一段軽い。

今回の攻略は以上です。感想や質問をお待ちしております。

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2007年5月18日 (金)

長屋王の変を攻略

日本史というよりも国語の教科書に載ったことで有名になった長屋王を今回の主役にしてみようと思います。僕が小学生のころの国語の教科書には長屋王の館の跡から大量の木簡が見つかったこと、天然の冷蔵庫である「氷室」があったことを題材にした説明文が載っていました。現在も載っているのでしょうか?もし、現在は削除されてしまったのならば、もう長屋王の名前を覚えている人は少ないことでしょう。そこで「長屋王の変」を攻略します。

長屋王という人は、父親が天武天皇の息子である高市皇子(たけちのおうじ)で、母は元明天皇の姉という血統的にはかなり天皇に近いサラブレットなわけです。

平城京遷都時、つまり奈良時代が始まったときに政権を握っていたのは藤原不比等でした。長屋王の妻は藤原不比等の娘でしたから、適当にゴマをすっておけばそれなりに出世することも可能でした。

720年に不比等が没すると長屋王は次々と昇進を重ねていきます。というのも、当時不比等の4人の息子たちはまだ若いひよっこにしかすぎませんでした。長屋王は天皇に非常に近い血統であることと、不比等の娘を妻にしていることから、不比等亡きあとの権力を握るにはこれ以上ない適任でした。しかも、元正天皇の妹をも妻に迎えていて、皇族の代表者であり、政界の代表者でもあるという地位を確固たるものとしました。

しかし、藤原4兄弟と次第にうまくいかなくなっていきます。なぜなら、長屋王が藤原氏の特別扱いを決して許さなかったからです。4兄弟が聖武天皇の母「藤原宮子」(不比等の娘)に”大夫人”の称号を付けようとしたとき、長屋王はそれは(現在の民法)に違反するからダメだ、といって却下しました。

藤原4兄弟の面目は丸つぶれです。それに、聖武天皇は病弱なうえ、息子は非藤原氏の皇子でした。このままではヤバいとあせった4兄弟は聖武天皇の夫人である光明子(不比等の三女)を皇后にすることを考えだします。

しかし、皇后とは天皇の政治をたすける役割をもっていて、状況によっては次代の天皇に就く可能性がある地位です。皇族の者しか皇后にはなれないのが当時の常識でした。藤原宮子のときでさえ、首を縦にふらなかった長屋王が光明子の立后を認めてくれるわけがありません。「仕方ない、消すか」と4兄弟は悪いことを企み始めるのです。

729年2月10日、朝廷に長屋王を訴える2人がありました。漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)です。彼らがいうには「長屋王はひそかに左道(呪い)を学び、国家を傾けようとしている」というのです。

普通なら、こんな下級役人のいうことなんて誰も信じません。少なくとも裏づけ調査は行うはずです。しかし、この訴えを聞いた4兄弟の一人、藤原宇合(うまかい)は即、兵を出して、長屋王の館を包囲させます。翌日、藤原武智麻呂(むちまろ)らが長屋王の館に行き、長屋王に尋問します。しかし、長屋王の弁明や具体的な謀反の計画など何一つ明らかにされないまま、次の日に長屋王は自害させられます。このときに妃の吉備内親王と息子たちも自害しています。また、長屋王の臣下97人が捕らわれて、うち7人が流罪となっています。

Nagayaou_1 

↑長屋王の墓。墳墓型。

かなり強引なでっちあげ計画ですが、大成功に終わるわけです。長屋王の変から半年後、光明子は初めて皇族以外の皇后となります。もちろん、4兄弟はとんとん拍子のうちに出世を遂げていきます。完全に政治の主導権は皇族から藤原氏へと移りました。

ここまでは笑いが止まらない藤原4兄弟ですが、長屋王の変から9年後、天然痘によりバッタバタと死んでいきます。わずか4ヶ月で4兄弟は全滅。他の中級官僚たちも半分近くが天然痘により命をおとします。藤原4兄弟の死後、藤原氏の結束はくずれ、藤原氏の栄華も短いものとなりました。

この異常事態に人々の脳裏に浮かんだものが「長屋王の怨霊」なわけです。特に当事者である聖武天皇と光明皇后の恐怖はすさまじく、2人は不眠症になり、いまでいうノイローゼ状態になったようです。長屋王の怨霊に悩まされながら2人は一生を過ごすことになります。

            攻略

語呂を紹介しますが長屋王の変自体の年号は覚える必要はありません。不比等の次に政権を握ったのが長屋王であることだけは覚えておいてください。

729年  長屋王の変  難に苦しむ、長屋王。

赤字の人物は覚えておいてください。ここでは余裕があったら覚えてほしい人物を紹介します。

高市皇子……たけちのおうじ。天武天皇の長男。壬申の乱では軍事の全権を委ねられた。母親の身分が低かったため、天皇には即位できなかった。長屋王の父。

元正天皇……独身で即位したはじめての女性天皇。妹は長屋王の妻、吉備内親王(きびのないしんのう)。724年に聖武天皇に譲位した。

藤原武智麻呂……ふじわらのむちまろ。不比等の長男。藤原南家の祖。

つぎは用語です。

木簡……墨で文字を書くために使われた、細長い木の板。

皇后……天皇・皇帝の正妻。きさき。

天然痘……痘瘡(とうそう)ウイルスの感染によって起こる悪性の伝染病。高熱と全身に小水疱(すいほう)とが出て死亡することが多く、治ってもあばたが残る。法定伝染病・検疫伝染病に指定。WHO(世界保健機構)の種痘の励行によって1980年地球上から消滅。天然痘。疱瘡(ほうそう)

怨霊……受けた仕打ちにうらみを抱いて、たたりをする死霊または生き霊。

左道……異端幻術を学習して呪詛すること。

豆知識

1988年夏に、奈良市二条大路南で行われた発掘調査で、3万5千余の木簡が出土した。その内容から長屋王の館跡であることが判明した。

・発掘地はデパートそごうの建設予定地だった。

・長屋親王とする学説もある。実際に木簡には親王と書かれてあるものも出土している。

・光明皇后は孝謙天皇の母。

今回の攻略は以上です。日本史に関する問題・コメントをお待ちしております。

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2007年5月13日 (日)

キリスト教伝来を攻略

同じ学年にエホバの生徒がいたのですが宗教って一体何なのだろう?と小学生の子供ながら考えてしまいました。エホバの方たちが輸血を禁じられているのは有名ですが、校歌を歌ってはいけないし、運動会のかけっこにも参加できません。人と競うのはダメらしいのです。もちろん、騎馬戦なんてもってのほかです。そのくせ、受験戦争には参加していましたけど。宗教というのは本当に不思議なものです。道徳に役立つし、戦争の道具にもなる。僕は日蓮宗なのですが、いつか日蓮宗徒が起こした戦争を攻略したいと思います。

さて、今回は当時の日本でも一大ブームを巻き起こした「キリスト教の伝来」を攻略します。もちろん今回の主役はフランシスコ・ザビエル君です。

Xavier

↑あまりにも有名なフランシスコ・ザビエルの肖像画。

16世紀にドイツの神学校の教授であるマルティン・ルター免罪符の販売を否定し、新教(プロテスタント)を唱えます。これが宗教改革運動として北ヨーロッパでは爆発的に広まっていきます。しかし、南ヨーロッパでは反動として旧教(カトリック)の保護運動が起こります。この保護運動を代表するのが、スペインで結成されたのが「イエズス会」です。ザビエルはイエズス会の結成時からのメンバーでした。

ザビエルはゴア(インドの西岸)に渡って布教活動を始めます。しかし、なかなかうまくいきません。そこで、計画を変更してマラッカ(マレーシア)、アンボン、テルナテ、モロタイいずれも現在のインドネシア)などを回って布教活動を行います。

1547年12月、マラッカに戻って活動中だったザビエルはあるポルトガル商人から一人の日本人を紹介されます。彼は薩摩(鹿児島)出身の武士で、名前をヤジロー(アンジロウとも)といいました。ヤジローは薩摩で人を殺してしまった罪で逃亡中であるというわけありの身でした。

ザビエルはヤジローから日本についていろいろと話を聞きます。日本についてかなりの好感を得たザビエルは「ふむ、日本人はいけるかもしれませんね」と考えるようになります。そして、日本で布教活動を行うことを決心します。「ヤジロー、日本まで案内してちょうだい!」こうしてみなさん、そのときはやってきます。1549年8月15日にザビエル一行は鹿児島に上陸します。これが教科書に載っているキリスト教が日本に伝来した歴史的瞬間なわけです。

ザビエルはヤジローを通訳として働かせます。ヤジローの働きもあって、同年9月にザビエルは薩摩国主「島津貴久」から布教活動の許可を得ることに成功します。貴久はザビエルたちが持っている珍しい物(南蛮品)が欲しかったのです。布教を許してあげればこれから薩摩にジャンジャン南蛮船がやってきて珍しい物がたくさん手に入ると考えたのです。

ところが、結果はまったくの逆でした。なぜなら、当時の鹿児島港があまりにもショボかったからです。貴久の読み通り、商人と宣教師は密接な関係でした。「商人あらわるところに必ず宣教師の姿あり」なわけです。しかし、悲しいかな鹿児島なんかよりも平戸長崎のほうがずーーっといい港でした。ザビエルも薩摩にいた期間は短く、すぐに平戸に移ってしまいます。もうそうなってしまったら、ポルトガル船なんか鹿児島には何のようもありません。貴久の思惑はまったく裏目に出てしまったのです。

貴久は期待していた分がっかりしてしまいます。やがて、それは激しい怒りへと変わります。「キリスト教の布教は禁止じゃー!」となるのです。

ザビエルは天皇にさえ布教の許可がもらえれば大丈夫だと考えていました。一国の国主がヒステリーを起こしても大して怖くはありません。ザビエル一行は京の都を目指します。しかし、京までやって来たものの天皇と会うことの許可がどうしてもおりませんでした。やっぱりカッパ頭が怪しすぎたのでしょうか?泣く泣くザビエルは京を後にします。

京からザビエルは山口へと移動します。山口では布教活動の許可を得ることに一度失敗していたのでその教訓をいかして、ザビエルはたくさんの貢ぎ物を持って、領主「大内義隆」と接見します。これを喜んだ大内義隆はザビエルに布教の許可を下し、おまけに教会まで作ってあげました。

が、間もなく大内氏は家臣の謀反により滅んでしまいます。ザビエル一行は豊後(大分)の大友宗麟のもとへ身を置くことになりました。宗麟はキリスト教に大変な興味を示し、ついには自らキリスト教へと改宗します(キリシタン大名)。

↓ザビエルの日本渡航図。クリックして見てください、大きくなります。

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しかし、ザビエルはなにか納得がいきませんでした。キリスト教になったといっても結局はみんな南蛮品が目当てだからです。宗麟も例外ではありません。それに天皇に会うこともこのままでは叶いません。

そこでザビエルは一旦出直すことにしました。2年2ヶ月。ザビエルが日本に滞在した期間です。ゴアに戻ったザビエルは日本にキリスト教を広めるためには日本に強い影響を与えている明国から布教していく必要があると考えます。そして、明へと向かう途中に病に倒れ、帰らぬ人となるのでした。

ザビエルが日本を去ったあとも次から次へと宣教師たちは日本を訪れます。しかし、キリスト教徒たちは豊臣秀吉の伴天連追放令、江戸幕府によるキリスト教の禁止と苦難の道をたどることになるのです。

           攻略

キリスト教の伝来は本当によく問題に出てきます。年号をしっているとかなり有利になるので是非覚えておきましょう。

1549年 キリスト教伝来  以後よく、ひろまる、キリスト教。

赤字の人物は覚えておきましょう。ここで紹介するのは余裕があったら覚えておきたい人物です。

大内義隆……周防・長門(山口県)の大名。キリスト教の布教活動を認めた。

大友宗麟……豊後(大分県)の大名。一時は九州6ヶ国を平定したが晩年は豊後一ヶ国に。キリシタン大名として有名。

大村純忠……肥前(長崎県)の戦国大名。熱心にキリスト教を信仰し、民衆にまで改宗を強行したので反発を受けた。

有馬晴信……肥前国日野江藩初代藩主。キリシタン大名。大友宗麟、大村純忠とともに天正遣欧使節を派遣したことで有名。

ルター……宗教改革の中心的指導者。聖書をドイツ語に翻訳した。ルーテル教会の創始者。

次は用語です。

南蛮品……ヨーロッパの製品。ポルトガルと貿易を行うことによって南蛮品を輸入した。鉄砲、生糸、衣服が珍重された。

布教……宗教をひろめること。

宣教師……キリスト教を広めるため、外国、特に異教国に派遣される伝道者。ミッショナリー。

改宗……今まで信じていた宗教や宗派を捨てて他の信仰に入ること。

天正遣欧(少年)使節(団)……1582年、ローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。1590年に帰国。最新の印刷機など様々なものを日本に持ち帰った。

伴天連(バテレン)追放令……1587年、豊臣秀吉により発令された。宣教師の20日以内の国外退去。領主が民衆にキリスト教への改宗を強制することを禁じた。バテレンとは宣教師のことをさす。

豆知識

・当時キリスト教は切支丹、天主教、耶蘇教、南蛮宗などと呼ばれていた。

・ヤジローは日本人で最初のキリスト教徒である。

・最初にザビエルが大内義隆に布教活動の許可を得ようとした際、キリスト教が同性愛を禁止していることを聞いた義隆は激怒して、布教を許さなかった。当時の日本では男同士が肉体関係を結ぶことは至って普通のことであった。いや、女性よりも気持ちいいと考える者も多かった。後にザビエルから贈り物をもらって布教を許す。

今回の攻略はここまでです。日本史の問題・コメントをよろしくお願いします。

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2007年5月 9日 (水)

蛮社の獄を攻略

先日、待ちに待った「ゲームセンターCX」の第7シーズンの放送が始まりました。1回目は第7シーズンにあやかってか「ウルトラセブン」のエンディングを目指すという内容でした。今シーズンは全10回あるということで残り9回も楽しみです。

ゲームセンターCXのように今回は少しマニアックな事件を攻略したいと思います。教科書にもこっそり載っているような感じで存在感はあまりありません。ところがテストではたびたびひょっこり顔を出してくるタチの悪いやつです。それにこの事件、一体何なのかよくわからないままスルーしてしまった方も多いと思われます。でも、意外とおもしろい事件なので攻略しておきましょう。というわけで今回は1839年(天保10年)5月に起きた「蛮社の獄」(ばんしゃのごく)を攻略します。

この「蛮社」って一体何なのでしょうか?これがこの事件をわかりにくくさせている要因の一つではないでしょうか。「蛮社」とはズバリ言うと「あだ名」です。

では本当の名はというと「尚歯会(しょうしかい)」といいます。尚歯会は高野長英渡辺崋山小関三英ら有志の洋学者や医者で組織されていて、日夜蘭学の研究と海外の情勢(軍事力)を研究していました。つまり当時の最先端の研究を好きでやっていたわけです。

しかし、当時は鎖国中です。海外のものには厳しい取締りがありました。特に蘭学は国学派(漢学や朱子学)から野蛮な学問と野次されていて、「野蛮な学問を研究している会社」だから略して「蛮社」とあだ名して、バカにしていたわけです。

1837年イギリス船「モリソン号」が薩摩沖にあらわれます。薩摩藩は異国船打払い令にのっとってモリソン号を砲撃します。モリソン号の船員たちもこりゃたまらんと退散しますが、浦賀に再び姿をあらわします。幕府はもちろん「撃てー!!」です。モリソン号は「ダメだこりゃ」といって姿を消します(モリソン号事件)実はこのモリソン号、マカオで漂流していた日本人を送り届けようとしていただけで、軍艦でもなかったのです。そのことがわかるのは1年後です。

「これはヤバいぞー」と尚歯会のメンバーは震えはじめます。彼らは日ごろの研究でイギリスの軍事力のことを知っていましたから報復行為があれば、あっという間に日本は植民地にされてしまうと思ったわけです。とくに高野長英は「夢物語」という本で具体的にイギリスの軍事力をあらわして異国船打払い令は危険であることを説明しました。

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↑高野長英の肖像画

幕府もモリソン号事件はヤバかったかも……と思い、海防のために沿岸の測量をはじめます。この測量に失敗してしまったのが鳥居耀蔵(とりいようぞう)です。蘭学により最新の測量技術を取り入れた江川英龍に負けてしまうのです。鳥居は自分の無能ぶりを認めずに「蘭学者のヤツらめ~、余計なことをしやがってー!」と蘭学者を目の敵にします。

そんなときに「蛮社の者の中に海外渡航を企てているヤツがいます」という内部告発が鳥居の耳に入ります。「チャーンス!」とばかりに鳥居は蛮社のメンバーを一斉に逮捕します。しかし、このチクリには何の根拠も証拠もなく鳥居がでっち上げたのではないのか?という説も現在はあります。こうして「蛮社の獄」ははじまります。

渡辺崋山は「慎機論」という本を書いていました。このままでは日本が諸外国から侵略されて植民地になってしまう、という内容でしたが自分でもこれは過激すぎると思って、発表することはなく、お蔵入りにしていたのです。しかし、強制家宅捜査により「慎機論」が見つかってしまい、崋山は自宅で永蟄居(無期の謹慎)に罰せられます。

高野長英は「夢物語」などによる異国船打払い令の批判と開国を主張した罪により無期懲役の刑になります。小関三英は逮捕前に潔く自害します。

3年後、渡辺崋山は絵の展覧会を催します。崋山といえば絵師としても有名です。まあ、謹慎中なのですから絵を描くことぐらいしかやることがなかったのでしょうけど。しかし、この展覧会が藩から批判を受けます。「絵も描いちゃいかんのかい!」と崋山は怒って、「そんならお望み通り死んでやるよ」と言って自決します。めちゃくちゃ気が強いですね。

さらに3年後、牢屋に入っていた高野長英ですがラッキーなことに牢屋が火事になります。消火のどさくさにまぎれて脱獄します。宇和島藩(現在の愛媛県)で庇護されて、蘭語の翻訳や兵備の洋式化の仕事をしていましが、何を思ったのか江戸に戻ります。江戸では人相書きが出回っていたので薬品で自分の顔を焼いて、人相を変えて医者をはじめます。なんと大胆な整形でしょうか。しかし、1850年、とうとう役人に捕まってしまいます。死因ははっきりしませんが逮捕後間もなく長英は死んでしまいます。

ひとりの嫉妬からはじまった蛮社の獄ですが、この事件後も蘭学を研究しようとする者はあとを絶ちませんでした。長英の死から4年後に幕府はアメリカから脅されて開国することになります。

            攻略

蛮社の獄については年号は覚えておく必要はありません。ただ、大塩平八郎の乱(1837年)のあとで、ペリー来航(1853年)よりも以前の出来事であることを覚えておきましょう。というのも大塩平八郎の乱の直後で幕府は結構ピリピリしていました。そこにモリソン号事件を契機に幕府の政策批判が行われていることに敏感に反応しました。証拠もないまま蛮社の獄をおこなって蘭学者を弾圧して口封じをしたわけですが、時代の動きはより一層開国へと向かっていく、という流れだからです。一応、語呂は紹介しておきます。

1837年 モリソン号事件  いやみなモリソン号事件。

1837年 大塩(平八郎)の乱 いやみなおっさん、大塩の乱。

1839年 蛮社の獄  いやー、見苦しい、蛮社の獄。

赤字人物は覚えておきましょう。ここでは余裕があったら覚えておきたい人物を紹介します。

小関三英……コセキサンエイ。医者・蘭学者。はっきりいって覚えなくていい。

鳥居耀蔵……天保の改革下での目付、南町奉行として江戸市中の取締りを行った。覚えなくていい。

用語です。なんといっても蘭学が大事です。

蘭学……江戸中期以降、オランダ語によって西洋の学術・文化を研究した学問。享保年間(1716~1736)、青木昆陽・野呂元丈の蘭書の訳読に始まり、前野良沢・杉田玄白・大槻玄沢ら多数の蘭学者が輩出、医学・天文学・暦学・兵学・物理学・化学など自然科学全般にわたった。

国学……江戸中期に興った、文献学的方法による古事記・日本書紀・万葉集などの古典研究の学問。儒教・仏教渡来以前の日本固有の文化を究明しようとしたもの。医学の面においては漢方薬を飲むことを最適とし、手術と行う蘭学者(現在でいう外科)を批判した。

異国船打払い令……江戸幕府が文政8年(1825)に出した外国船追放令。ロシア・イギリス船の来航の増加に対し、理由に関係なく外国船を打ち払えと命じた。天保13年(1842)廃止。無二念(むにねん)打払令ともいう。

開国……鎖国をやめて、外国との交際、通商を始めること。

植民地……ある国からの移住者によって経済的に開発され、その国の新領土となって本国に従属する地域。武力によって獲得された領土についてもいう。

豆知識

・尚歯会とは「歯を大事にする集まり」という意味。当時は鎖国中で西洋を研究しているとは言えなかった。

・小関三英は西洋史に造詣が深く、日本にはじめてナポレオンを紹介した。

・鳥居耀蔵の取締りは厳しく、民衆からは嫌われていたらしい。

・高野長英が脱獄するきっかけとなった火事だが、実は長英が牢屋で働いていた者をそそのかして放火させたという説もある。

・高野長英の死についてはいくつか説がある。役人に捕まるときに自害しようとしたがその場では死ねなかった。しかし、その傷がもとで後日亡くなった。また、役人が捕縛する際にかなりの暴行を加えたため、亡くなった。

・実は渡辺崋山は蘭学者ではなく、政治家・画家である。しかし、蘭学者のリーダー的存在であった。鷹見泉石(たかみせんせき)像は代表作。覚えておきましょう。

今回の攻略は以上です。蛮社の獄に関する問題を見かけた方はぜひ問題を紹介してください。コメントもお待ちしております。

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2007年5月 7日 (月)

桶狭間の戦いを攻略

ゴールデンウィークもとうとう終わってしまいました。今年も5月病にかかってしまいそうです。いや、僕のことだからきっとかかるでしょう。

「織田信長」「坂本竜馬」と聞いて目を輝かせる人が必ずクラスに一人はいます。男子校だったら3人は堅いですね。かくいう僕も織田信長はかなり好きです。上司に信長みたいな人がいたらビビッてしまって、即会社を辞めますが第三者として見る分は大変興味深い人物です。

信長についてはあまりにもエピソードが多くて、何を攻略するか迷うところですが、今回は必ずどの教科書にも載っている世紀の大番狂わせ「桶狭間の戦い」を攻略してみたいと思います。

「好きな時代は?」と聞くと「戦国時代」と答える人が結構多いです。特に男性なんかはかなりの確率です。かくいう僕も例にもれません。いつもは授業中爆睡しているスポーツ特待生たちも戦国時代と聞くとわくわくしながら授業にのぞみます。

ところが、あまりにもあっさり授業は終わってしまいます。「織田信長は桶狭間の戦いで今川義元をやぶりました。その後信長はうんぬんかんぬん……」そして、あっという間に「関が原の戦い(合戦)」が終わっています。教科書においても桶狭間から関が原まで3ページも費やしていません。太平洋戦争時の日本軍の残虐行為については何時間もかけて説明するのに戦国時代はたったの1時間で終わりです。楽しみにしていた生徒たちは拍子抜けもいいところです。僕は憤りさえ感じました。そして、特待生たちはまた深い眠りへと堕ちていくだけです。

これでどうやって日本史を好きになれというのですか!?学校の授業では歴史を好きになるための布石なんてどこにも落ちていません。日○組に洗脳された間違った平和思想だけが刷り込まれるだけです。こうなったら架空人物のオンパレードとなっているジャニーズに乗っ取られた大河ドラマでも観て、日本史への好奇心を模索するしかありません。

話がかなりそれてしまいました。さあ、本題に入りましょう!

1560年(永禄3年)5月、三河・遠江・駿河の三国を所有する東海一の大名「今川義元」は2万5千の軍勢とともに駿府を発って西進を開始します。上洛するためという説が一般的ですが現在では否定の方向に向かっています。そもそも「上洛する」という概念をもったのは織田信長が最初ではないのか?上洛するには2万5千の兵では途上中の諸大名を倒すことは不可能にちかいこと。記録によれば兵糧があきらかに少ないこと。これらの理由により、今川義元の目的は信長退治であったという説が力を持ち始めています。

織田家と今川家とは信長の父、信秀のころから争っています。信長が父の跡を継いでから約10年かけて尾張国を平定すると次第に今川領である西三河でも勝つようになりました。鳴海城という城を孤立化させることに成功し、ほぼ手中に収めていました。

そこでとうとう今川義元が本気になるわけです。いままでは武田氏北条氏のせいで戦力をさかれていましたが義元は政略結婚をたくみに利用して、両氏と同盟を結ぶことに成功しました。これで怖いものはなくなったわけです。調子にのっている織田家をひねりつぶしてくれようと自ら大軍を引き連れて居城から出発したわけです。

この報せはすぐに信長の耳に入ります。織田軍は3千の兵しかいません。圧倒的に数が不利なときは篭城して敵を迎え討つというのが戦いの常識でした。家臣たちももちろん篭城するき気満々でした。しかし、信長は2千の兵を連れて出陣します。「常識はずれの行動」こそ信長の真骨頂です。だから信長ファンは多いのではないでしょうか。

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↑桶狭間の戦い。今川義元、織田信長軍に奇襲を受けるの図。

出陣した信長はまず熱田神宮に向かいます。戦勝祈願のためなのですがいつもは「神も仏もおらんがな~」とまったく信仰心がない信長です。家臣たちも不思議に思います。

熱田神宮に到着すると縁起のいいことが起こりまくります。境内から戦勝を意味する音が聞こえただとか、銅銭をなげて勝敗を占ったら勝つほうにでた……などです。実はこれらは兵の士気を高めるための信長によるヤラセだったのです。しかし、この話、実はどこまでが真実かわかりません。かなり脚色されたものかもしれないのです。

「桶狭間」の漢字をみたらわかるように「狭い」「間」とあります。漢字って便利ですねー、漢字が意味する通り、桶狭間は非常に狭い道が続くところでした(といっても谷間ではありません。小さな丘が連続しているところだったみたいです)。信長はこれに目をつけたのです。いくら大軍でも道が狭いと縦長にならざるをえません。戦で一番怖いのは囲まれるか、退路を絶たれることです。縦長の陣形は敵を包囲することもできないし、攻撃されたときに前方の兵は後ろに逃げることができません。かなり危険な陣形といえます。

海道一の弓取りといわれた義元です。そんなことは百も承知だったとは思うのですが、突然の豪雨に兵を進めるのをやめて、休憩をとります。おそらく相当雨の中を行軍するのは危険な場所だったのでしょう、桶狭間というところは。……だから「桶」?

信長はこの雨を好機と考えます。夜中に2千の兵で一気に今川軍に突っ込みます。油断していた今川の兵士たちは織田軍に敵陣突破を許してしまいます。織田軍は簡単に義元が陣をはる場所にたどり着くことができました。義元は毛利新助に首を斬られます。当時の戦いは大将がやられると軍は引くのが常識でした。

こうして信長の奇襲から2時間ほどで桶狭間の戦いは決着がつくわけです。桶狭間の地理をよく調べていた信長の情報戦の勝利という評価が今日では強くなっています。奇跡は「偶然」ではなく「必然」であったというわけです。

桶狭間の勝利により信長は畿内地方の攻略に専念できるようになり、上洛、室町幕府滅亡へと歩を進めることになります。しかし、桶狭間の戦いが一番の転機になったのは徳川家康ではないでしょうか。当時、松平元康と名乗っていたのちの徳川家康は不本意ながら今川義元の家臣となっていました。ところが桶狭間の番狂わせにより、念願の独立をはたします。のちの天下取りの第一歩になったのは間違いないでしょう。

            攻略

年号なのですが正直いって覚える必要はありません。とにかく、信長が関係する戦のなかで最も古い戦いであるということを頭に入れておいてください。それでも覚えたいという方のために語呂あわせを紹介します。

1560年 桶狭間の戦い  イチコロ、桶狭間。

人物ですが赤字はもちろん覚えてください。といっても桶狭間の戦い自体に深く関わるのは信長と義元だけなのでこの2人をおさえておけば大丈夫です。

松平元康……のちの徳川家康。これから先、松平姓がでてきたら家康の縁者と思っていい。

用語です。

三河、遠江、駿河……現在の愛知県東部、静岡県西部、静岡県東部。

尾張……現在の愛知県西部。

篭城……城にたてこもって敵の攻撃を防ぐこと。

銅銭……銅で作られた硬貨。当時は明国から輸入していた。

上洛……京都にいる将軍を保護することを意味し、結果的に全国支配に必要な権威を示すことになるという考え。

陣形……戦闘の隊形。状況(相手の陣形)によって有利・不利な陣形がある。

テスト攻略

・桶狭間の戦いの年号をダイレクトに聞かれることはまずないでしょう。よく目にする問題は「次のうち年代の古いものから順に並べよ」-「桶狭間の戦い、鉄砲の伝来、長篠合戦、室町幕府の滅亡」……解)この問題は年号なんて知らなくても流れがわかっていれば解けます。まず、織田信長が室町幕府を滅ぼした張本人であること。幕府を滅ぼしたあとに武田氏を滅亡させたことをまず考えます。次に教科書上では信長の名前が登場してくるのは桶狭間の戦いが最初であること。信長軍の強さは鉄砲隊をはじめとした集団戦法を取り入れたことを考えると、鉄砲伝来が最もはやいことがわかります。よって、答えは「鉄砲伝来→桶狭間の戦い→室町幕府の滅亡→長篠合戦」となります。

・戦国時代は地理を把握することが重要です。ここでも三河だとか尾張だとかでてきますが、それが現在の何県にあたるのかをなんとなくでいいので頭に入れておきましょう。そうすると俄然戦国時代の理解が広がります。

豆知識

・松平元康の「元」の字は今川義元の「元」をもらった。

・今川義元は首を斬られる前にかなりの抵抗をみせた。毛利新助の指を噛みちぎって、首をはねられても口から指をはなすことはなかった。

・義元が討たれた場所は田楽狭間(諸説あり)で、現在は公園となっている。

今回の攻略は以上です。みなさんからのコメントをお待ちしております。また、人気ブログランキングへの投票もどうぞよろしくお願いします。

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2007年5月 6日 (日)

桜田門外の変を攻略

僕が住んでいるところはお寺がとても多い場所です。お寺の名前が駅名にもなっているくらいです。そこには今回の主役「井伊直弼」の菩提寺があります。といくことで今回は1860年3月に起こった「桜田門外の変」を攻略します。

当時大老であった井伊直弼が江戸城桜田門で水戸藩と薩摩藩の浪士18人に襲撃された暗殺事件です。今はその場所は皇居となっていますが桜田門はあります。なんてことのない門ですが日本一有名な門には違いないでしょう。

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さて、井伊直弼といえば桜田門外の変以外にもおさえておきたいことが2つあります。

日米修好通商条約の締結と安政の大獄です。

1853年のペリー来航以来日本は各国から開港を迫られます。もちろん様々な脅迫・脅しがあり、やむなく当時の老中「阿部正弘」は日米和親条約を締結します。つまり、鎖国をやめて外国人(西洋人といったほうが適切かも)を受け入れたわけです。

「このままでは日本が乗っ取られてしまう!」と危険を感じる人たちが多くなり、「外国人(当時は異人と呼んでいた)を排斥しよう、追い出そう」という運動が広がっていきました。中には殺してしまえという過激なヤツもいました。これが「攘夷」とうやつです。

特に水戸藩主の徳川(水戸)斉昭は藩をあげて攘夷運動を推進しはじめました。幕府にとっては目の上のたんこぶです。もし、外国のお偉いさんたちと揉め事を起こしたら、軍艦から大砲の弾が江戸に降ってくるかもしれないのです。「斉昭よ、だまらっしゃい!」と言いたいところなのですが、なんせ水戸藩は徳川御三家のうちのひとつです。しかも藩主斉昭は賢くて民からの信頼も厚いようです。強く言うことができずにいました。

そんなときに大老となった井伊直弼は就任するやいなや、日米修好通商条約を結びます。この条約の中味は日本には関税自主権がなく、治外法権であるという非常に不平等なものでした。いつの時代もアメリカがやることは勝手で都合がいいことばかりです。条約締結には問題がもう一つありました。孝明天皇の許可なく直弼が独断でこの不平等条約を結んだのです。

これには斉昭もブチギレです。「ふざけたことするんじゃねーよ!」と井伊直弼に迫りますが「責任があるのはあっしじゃございませ~ん」といって、部下の老中2人に責任をなすりつけ、さらには自分の腹心を高い地位につけます。

もちろん、こんな状態に斉昭は黙っていられません。しつこく直弼の責任追及を行います。すると直弼は「あいつ、うるさい!」といって、斉昭を蟄居(ちっきょ)させてしまいます。さらに「ほかにもうるさいやつがいっぱいいるみたいだから処罰してきて」と間部詮勝を京に派遣します。この一連の動きを「安政の大獄」というわけです。吉田松陰など100人以上が罰せられました。

将軍の後継者争いにも勝利をおさめていた直弼の力は強大なものになっていました。自分に反対するやつは安政の大獄によって消すのですからもう笑いがとまりません。

この状態に我慢できなくなった18人が暗殺計画を企てるというわけです。18人中17人が水戸浪士という点も納得できますね。リーダーは関鉄之介という人ですが、超難関校のマニアックな問題以外はまず出ることはありませんので軽く流しておきましょう

1860年3月3日(陽暦24日)雪が降り積もるなか浪士たちは桜田門の前で登城してくる井伊直弼の籠に襲い掛かります。暗殺は見事に成功します。わずか15分の出来事でした。井伊直弼以外に護衛のお供が8人死亡。暗殺側は一人死亡。しかし、多くは自害または捕まって処刑さました。なかにはちゃっかり逃げきった人もいたみたいです。

幕府の大権力者が暗殺されたこの事件は日本中を騒がせます。幕府は暗殺の事実を隠し、病死として公表しますがあっという間に真実が広まってしまいます。これを機に討幕は一気に加速していくことになるのです。

           攻略

さあ、まずは覚えておきたい年号からいきましょう。幕末はいろいろと事件が立て込んでいます。こういうときこそ、語呂あわせの本領発揮です。

1853年 ペリー来航  ヤッコさんもびっくりペリーの黒船。※翌年に日米和親条約締結。

1858年 日米修好通商条約締結  山小屋通称ハリスと自己紹介。

1860年 桜田門外の変  井伊は老齢、桜田門外の変。

次は人物です。赤字の人物は覚えておきましょう。ここでは余裕があったら覚えておきたい人物を紹介します。

ハリス……初代駐日公使。日米修好通商条約を締結させた。

孝明天皇……第121代天皇。名は統仁(おさひと)。明治天皇の父。

徳川家茂(いえもち)……14代将軍。井伊直弼らの支持を得て将軍となる。正室は和宮(孝明天皇の妹)。

さあて、次は用語です。少し多いですが我慢です。

・大老……江戸幕府の職名。必要に応じて置かれ、政務を統括した最高職。定員1名。

・日米和親条約……1854年、江戸幕府と米国使節ペリーとの間に結ばれた条約。米国船の薪水・食料などの買い入れを認め、下田・箱館の開港、下田に領事を置くことなどが規定された。神奈川条約ともいう。

・関税自主権……関税(外国からの輸入品に課する税金)を自主的に定めて運営する権利。これにより、国内産業を保護することができる。

・治外法権……外国人が現に滞在する国の法律、特に裁判権に服さない制度。

・蟄居……武士に科した刑罰の一つ。自宅や一定の場所に閉じ込めて謹慎させた。

・浪士……主家を離れたまたは失った武士。浪人ともいう。

豆知識

・桜田門外の変が起きたのは3月3日。そう、ひなまつりの日です。そのお祝いに在府大名は登城する決まりでした。そこを浪士たちは狙ったわけです。

・黒船来航時の名言です。「太平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん)、たった四はいで夜も眠れず」と当時の人々が4隻の黒船を見て、大変おそれていた様子をよくあらわしています。しかし、最近の研究では人々が黒船来航をおもしろがっていたことがわかりました。毎日多くの見物人で港は賑わい、茶屋などの出店もたくさん出されて、黒船見物は一つの流行になっていたみたいです。

・黒船の名前は「サスケハナ」号といった。

・江戸時代に大老になった12名のうち5名が井伊家。

・井伊直弼のあだなは「井伊の赤鬼」

テスト攻略

幾度となく遭遇した問題に「日米修好通商条約は不平等なものであった。その理由を書け」というものがあります。これからは即答してあげましょう。「(日本側に)関税自主権がなく、治外法権であるから」。これで決まりです。

さらに聞いてくるイヤラシイ問題もあります。「不平等条約はアメリカ以外の国とも次々と締結されていきました。それはどこか?」……全部聞かれるのはまれですが、選択問題としてよく遭遇する問題です。答えは「オランダ、ロシア、イギリス、フランス」です。

今回はこれで終了です。みなさんからのコメントやメールをお待ちしております。

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2007年5月 3日 (木)

保元の乱を攻略

第二回目です。休みのうちにできるだけ更新しようと思っています。さあ、今回攻略するのは1156年7月に起こった「保元の乱」です。

いきなり話はそれますが、先日深夜アニメを観ました。ロミオ×ジュリエット」というもので、最初はなんとなく暇つぶしに観ていたのですが……なかなかおもしろい!原作はもちろんシェークスピアの『ロミオとジュリエット』ですが、これにファンタジー的要素を加えて許されぬ恋を描いています。まだ序盤で2人は出会ったばかりですが、これから先はおそらく敵同士となり自分たちの意に反して戦うことになるのでしょう。

そこで、そこでです。最初は親友であり頼れる味方でありながら、やがては敵同士になった平清盛源義朝を取り上げてみたくなりました。まだ2人が親友だったころに起こった一大イベント「保元の乱」です。

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↑保元の乱の図

保元の乱を攻略するためにはとにかく、誰が上皇側で誰が天皇側だったのかを把握することですここで登場する上皇とは「崇徳上皇」のことで、天皇とは「後白河天皇」のことです。

この2人はれっきとした兄弟です。父親は鳥羽上皇(法皇)で、崇徳上皇は4歳のときに即位しています。この父親である鳥羽上皇が妬み深く、優柔不断な男なのです。

鳥羽上皇は祖父である白河天皇とうまくいっていませんでした。まだ天皇を続けていたいのに20歳の若さでジジイからむりやり退位させられたことをずぅ~~~っと根に持っていました。

1129年に白河上皇が亡くなると「よっしゃー、オレの時代が来たぜ!」とガッツポーズをとりながら崇徳天皇を退位させ、まだ2歳の息子を即位(近衛天皇)させて権力を握ります。まあ、これが院政というやつですが、結局は大嫌いな祖父と同じことをしたということです。

さて、2歳で天皇となった近衛天皇ですが教科書で扱われることもなく16歳で亡くなります。さあ、次の天皇は誰にしようかとなるのですが、よりによって遊び人の雅仁親王に決まります。これが「後白河天皇」です。後白河天皇は蹴鞠(けまり)ばっかりやっていて少しも政治に興味をもっておらず、ニートよりもひどい状態でした。

では、なぜ天皇になれたのかというと、後白河天皇の息子めちゃくちゃお勉強ができたからでした鳥羽上皇はこの出来のいいかわいい孫を天皇にしてあげたかったのです。しかし、父親が生きているのにいきなり息子が天皇になるというのはあまりよろしくないと考えた上皇はとりあえずバカ息子の雅仁親王を天皇に即位させたのでした。

おもしろくないのは崇徳上皇です。自分にも息子がいるのにどう転んでも自分の息子は将来天皇になれそうにはありません。毎晩、わら人形に釘を打ち付ける日々をすごします

一方、摂関家である藤原氏でも兄弟間で対立が起こっていました。関白「藤原忠通」と左大臣「藤原頼長」です。忠通は天皇に、頼長は上皇に近づいていきます。

そうです、「保元の乱」とは兄弟げんかなのです!!

1156年7月2日。いよいよその時はやってきます。待ちに待った「鳥羽法皇の死」あえて崩御という言葉は使いません)です。

早速、崇徳上皇方は兵を集めようと画策します。この動きに後白河天皇方も敏感に反応し、兵を急いで集結させます。

上皇側についた主な武士は、源為義(義朝の父)、源為朝(義朝の弟)、平忠正(清盛の叔父)です。源為義は藤原頼長の家来であったので当然です。しかし、息子の義朝は父親と意見が合わずに、敵である天皇方につきます。一説によれば義朝はこのときすでに勘当された身分であって弟たちとも対立していたらしい。あれ、ここも兄弟で争っていますね(父親付き)

天皇側についたのは、源義朝平清盛源頼政です。特に義朝と清盛は以前から後白河天皇に忠誠を誓っていたので信頼が厚かったようです。

7月11日未明、天皇方は奇襲を仕掛けます。奇襲なんて武士のすることかー!」と為義は怒りまくりますが、息子の義朝は「うるせー、クソ親父!」と言って容赦なく火攻めも行います。見事、燃え広がって、戦の開始から4時間程度で決着がつきます。このどうしようもない骨肉の争いは天皇方の勝利で幕をおろします。

しかし、戦いの終わりは必ず次の戦いへの序章となるものです。

源義朝は恩賞に不満を感じます。第一に「なんで、清盛よりオレ様のほうが褒美が少ないねん!?」です。清盛は保元の乱には及び腰でした。叔父が上皇についたから自分もそうしようかな~、なんて考えていたところに義朝から「オレと一緒にでかいことをやろうぜ」と誘われます。清盛は尊敬する親友がそこまでいうので、迷いながらも天皇方についたのでした。しかも、戦いでは源為朝(弓の名手)にやられて撤退しているくせにです……納得いかねー!!

もうひとつは父親の処刑でした。減刑をお願いしたのですがまったく耳にいれてもらえず、斬首されてしまいます。弟も島流しとなりました。「話が違うじゃねえかよー!」となるわけです。

さあ、大変です。大きな不満を持ってしまった義朝はどうなるのか!?続きはいつか平治の乱」を攻略するときまでとっておきます。

       攻略

今回覚えておきたい年号はたった一つです。

1156年   保元の乱   いいころあい、保元の乱

簡単ですね。しかし、人物が覚えにくい。苗字が同じヤツが多すぎるからです。さらにこれら人物がどちらについたのかをしっかり把握しておきましょう。

崇徳上皇ー藤原頼長ー源為義、為朝

後白河天皇ー藤原忠通ー源義朝、平清盛

最低でもこの関係をおさえておきたいですね。出題もほとんどがこの関係に関するものなので面倒ですが仕方ないです。

では用語です。

上皇……天皇が位を退いてからの尊称。

法皇……仏門に入った上皇の呼称。法皇になっても院政を行い続けた。

院政……上皇または法皇が国政を行っていた政治形態。応徳3年(1086)白河上皇に始まり、天保11年(1840)光格上皇崩御まで断続して行われた。

蹴鞠……古代以来、貴族の間で行われた屋外遊戯。数人が革沓(かわぐつ)を履き、鹿革製の鞠を落とさないように、足の甲でけって受け渡しする。後白河天皇は蹴鞠の名手だった。

火攻め……城や屋敷に火をかけて敵を一網打尽にする戦法。

余裕があったら覚えてほしい人物

鳥羽天皇……第74代天皇。宗仁親王。3人の息子が天皇となる。院政を行った。

源為義……源義朝の父。保元の乱に敗れて処刑される。

平忠正……清盛の叔父。藤原頼長の重鎮。

豆知識

・崇徳上皇は鳥羽天皇の実子ではなく、戸籍上は曽祖父にあたる白河上皇の子であるという風説が流れていた。そのため、鳥羽天皇は崇徳上皇を嫌っていたというが信憑性は薄い。

・崇徳上皇は保元の乱の後、讃岐に流された。讃岐では自分の血で恨みつらみを書にしたためて、後白河天皇らを呪い続けた。そのため、上皇の死には暗殺説もある。さらには『雨月物語』の題材にもなっている。

・藤原頼長は保元の乱の戦中に矢に当たって戦死した。

・源為義の息子たちは義朝以外はみんな上皇方についた。

他にも豆知識がありましたらコメントよろしくお願いします。問題も随時募集しております。

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2007年5月 2日 (水)

建武の新政を攻略

さあ、いよいよ始まります。第一回目の題材を何にしようか迷いました。悩んだあげく取り上げたのがこれです。

「建武の新政」

そう、最も影が薄い3年間。しかし、60年間に及ぶ南北朝の動乱にもつながった建武の新政について攻略してみたいと思います。

Godaigo_2 ←の人物が今回の主役「後醍醐天皇」です。

日本史上最も有名な天皇の一人であることは間違いないでしょう。

「天皇」と聞くとなにか弱っちいイメージがあるのは僕だけでしょうか?どうもひ弱なイメージがあってあまり好印象を持つことができません。

しかし、後醍醐天皇はなかなかの剛の者です。鎌倉幕府の転覆を図って、「正中の変」「元弘の変」とクーデターを2度企てながら失敗し、ついには隠岐に流されてしまいます。おまけに京では別の天皇が即位してしまいます。

しかし、この天皇そんなことではめげません。自分の討幕への想いを熱く語っていた結果、楠木正成新田義貞足利高氏が幕府に反旗を翻してくれました。天皇自らも隠岐から脱出し、名和長年に迎えられ挙兵します。勢いのついた討幕軍は六波羅探題を攻め落とし、ついには鎌倉にも攻撃を加えました。

こうして1333年ついに鎌倉幕府は滅亡したのです。

江戸幕府が滅んだときに勝手に祭り上げられた明治天皇とはわけがちがいます。努力が違います!

さて、晴れて京に帰還した後醍醐天皇はもちろん、勝手に即位していた天皇(光厳天皇)を辞めさせ、再び即位します。

そして、これからはオレ(天皇)中心の政治をやるぞーー!!と燃えます。これを親政というのです。

1334年の正月には元号を「建武」にしたので建武の新政と呼ぶわけですが、漢字は「親」ではなく「新」を使うことが多いようです。

その中身は簡単にいうと「全部オレがやる」というものです。その代表が綸旨です。

武士への恩賞にしろ、土地の問題にしろ解決するためには必ず後醍醐天皇の許可が必要なわけです。今でいうところの決済(判子)が必要なわけです。

といっても全国に武士なんていくらでもいます。「俺も討幕で働いたぞー。土地くれー」だとか「ここは俺様の土地であいつの土地じゃない!」なんて揉め事は膨大にあります。その一つ一つに天皇は目を通して決済をする、つまり綸旨を出すわけですからまさに激務です。東国原知事も真っ青のものです。もちろん一人でやるのだから時間も掛かります。待っているほうは気が気じゃありません。

人はコンビニのレジで少し待たされるとイライラしてきます。もちろんこの時代の人たちも待たされるとイライラがたまってきます。その対象が天皇様であろうがコンビニのバイトの兄ちゃんだろうが関係ありません。

おまけに北条氏の残党が各地にいたりして、戦までも始まってしまいます。もう、我慢できないと不満を口にしだす武士が増え、ついにあの男が立ち上がります。そう、「足利尊氏」です。

美人をあげたから仲間でいてくれた新田義貞も尊氏には負けて、1336年ついには最後の頼みの綱であった楠木正成も湊川の戦いにおいて戦死してしまいます。こうして、建武の新政は2年半で散ってしまうのです。

さて、尊氏に敗れた後醍醐天皇はというと偽物の神器(天皇の証)を渡して、吉野(奈良県)に逃げます。逃亡先の吉野で「あれは偽物だよーん。本物はオレが持っているからオレが本当の天皇じゃい!!」と言い張るわけです。これが「南朝」の成立となるわけです。

やはり、ただ者ではありません。脱帽です。あんたはすごい!!

攻略

まずは覚えておきたい年号の攻略法です。年号は語呂で覚えるに限ります。騙されたとおもって一度お試しあれ。

1333年  鎌倉幕府滅ぶ   一味、さんざん、北条、滅ぶ。

1334年  建武の新政     勇みし後醍醐、建武の新政。

1336年  南北朝時代が始まる   いざ、去ろう吉野へ。

次は用語です。

綸旨……天皇(ここでは後醍醐天皇)の命令、またはその内容。

記録所……朝廷の重要事項を扱う訴訟機関。

雑訴決断所……一般的な訴訟、特に、所領関係の訴訟を扱った。

鎌倉将軍府……関東統治を目的に置かれた。鎌倉府の基盤となる。

さて、人物ですが文中の赤字の人物は要チェックです。他にも余裕があったら覚えておきたい人物たちです。リンクを貼ってあるのでよかったらどうぞ。

足利直義……尊氏の弟。建武の新政では鎌倉将軍府に赴いた。

護良親王……後醍醐天皇の皇子。征夷大将軍に任じられる。

義良親王(後村上天皇)……同じく後醍醐天皇の皇子。

北畠顕家……義良親王を奉じて陸奥将軍府に赴く。

最後に豆知識

天皇の名前は死んだあとに決まるものなのですが、後醍醐天皇だけは生きているうちに「オレは後醍醐天皇である」と名乗っていた。ちなみに即位中の天皇は今上天皇という。間違っても平成天皇なんて呼ばないように。恥かきますよ。

建武の新政に関する問題・題材がありましたらメールまたはコメントでください。一緒に解きましょう!

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後醍醐天皇―楠木正成 対 足利尊氏 Book 後醍醐天皇―楠木正成 対 足利尊氏

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マンガ 日本の歴史〈18〉建武新政から室町幕府の成立へ Book マンガ 日本の歴史〈18〉建武新政から室町幕府の成立へ

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2007年5月 1日 (火)

攻略をはじめるまえに

はじめまして、管理人の神海といいます。ご訪問まことにありがとうございます。

当ブログでは日本史上に起こった様々な出来事を管理人の主観を交えて、勝手な解を加えつつ、おもしろおかしく解説していきたいと思います。

そもそも歴史なんていうものは、ついこの間までは(今もか?)勝ったほうが書く(創作する)ものであって教科書に載っているものでさえ誰かの主観にしか過ぎないものです。そうです、歴史はいろいろあっていいものなのです!だからおもしろいのです!!

それを「歴史はひとつだから真実を教えなければならない」なんて発言をニュース等で耳にすることがありますが、本当におかしな話です。へそでお湯が沸きそうになります。

といっても日本史のテストを控えた生徒さんや大事な受験を前にした受験生のみなさんが読んでもギリギリ大丈夫な内容にはなってますのでどうぞご安心ください。

ブログのタイトルに「攻略!」と銘打ってしまったからには、必ず毎回取り上げた出来事に対してより知識を高めるための攻略記事を載せます。ここを読むだけでもテストの点が上がるような内容を目指しています。また、たいして興味がなかった方も攻略を読めば日本史が好きになる入り口ができれば幸いです。

そこで当ブログではみなさんから実際に遭遇した日本史の問題を募集したいと思います。

テストで出た問題、問題集に出た問題など何でも構いませんので当ブログにメールまたはコメントしていただければ、答えまでの導きかたを攻略させていただきたいと思います。

また、あわせて当ブログで取り上げて欲しい人物・出来事も募集します。みなさんからのコメントもどうぞよろしくお願いします。

最後に管理人が書いた小説をこちらに載せています。もしお時間がありましたら一読お願いいたします。

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